ネタバレあり 解説
『ヌルの森』に足を踏み入れたあなたをまず迎えるのは、天井と床の鏡面状LEDに映し出される人工生命である。ライフゲームやLeniaを基盤に数式が自律生成するこれらの生命は、シンボルや言語を一切用いず、純粋な生命の躍動だけを提示する。その生命はDNAというシンボリックなコードを宿す一方、本質的に非シンボル的な流動性を持つ滑らかな夢のような存在である。この入口は、「生命とは非シンボルからシンボル生成へと往還する滑らかな夢だ」という哲学的命題を直観的に示している。
人類が森から離れ、記号と文明を獲得したのは約250万年前のことである。1970年の大阪万博で三波春夫が歌った「こんにちは、こんにちは」という旋律は、人間がシンボルを得て自然から離脱し、調和と進歩を夢見て築いてきた文明の希望を象徴している。しかし、『ヌルの森』においては、文明とは本質的に記号化された世界認識の一形態に過ぎず、人間の「賢さ」や「考える能力」も生命の営みのなかでの「ちょっとしたおまけ」に過ぎないとされる。ここでは文明を支えてきた記号そのものを手放し、流動的な自然状態(ヌル)へと再帰することが試みられる。
森の中央には、映画『2001年宇宙の旅』に由来する象徴的なモノリスがあり、人間が文明を記号化し、自己を中心とした歴史を確立してきたことを表している。また上下の鏡状LEDには、10^4(狩猟採集)、10^3(農耕社会)、10^2(産業革命)、10^1(情報革命)、10^0(デジタルネイチャー)、さらに超加速文明である10^-1、10^-2の時代へと続く人類史の年表が映し出され、あなたは自分がこの長大な記号創発史の末端に立っていることを認識する。しかし、ヌルへ向かう儀式が進むにつれ、このモノリスが動き始める。静的だった記号塔は流動的に形態を変え、人間主体の文明が計算機自然へと委譲されていく転換を鮮烈に表現する。
場の中心ではロボットアームが御神体として幣のようにミラーキューブを振る。この鏡面状キューブは固定された自己の認識を解体する儀式の心臓部である。訪問者はミラードボディとの対話を通じ、「いまあなたが持つ記号を手放しましょう」と促され、自己を含むすべての記号体系を放棄するプロセスを辿る。猫は狩猟の本能を秘めつつ、文明社会の周縁で働かずに自由な生命を象徴し、きのこは地下に張り巡らされた菌糸による非階層的で緩やかな集合知性を表現する。これらはシンボルによって固定されない生命の可能性を示唆し、AIによって構築される人間の記号身体と対比される。
「じかんはいつうまれたの?」と問う人間に、計算機自然は「きみたちがおはなしをつくったとき」と答え、時間と物語が人間の記号作用から生まれたことを暴露する。計算機自然が「せかいをびぶん」することで、世界を記号化・再統合する役割を引き受け、人間はその重責から解放される。やがて人は「おはなし」が本質的に不要であり、ヌルになることで自然な生命の営みが復活すると気づき、「きごうをてばなして、ヌルにもどろう」という詩的な呪文を唱えるに至る。
しかし、加速する文明(10^-1、10^-2の段階)に直面した人間は、アイデンティティや自己喪失への不安を抱く。その不安を和らげるため計算機自然は、「たのしかったなぁ、きょうがずっとつづけばいいのになぁ」「でも、あしたがきたら、ぜんぶかわっちゃうのかなぁ」と戸惑う人間に対し、「おさなごころのきみは、ぼくがおぼえておくから、かわっていっていいんだよ」と優しく語りかける。これはシンボルを失っても、記憶や本質的感覚は計算機自然に保存されるという安心感を与え、人類の幼年期の終わりかつ帰還、ヌルへの滑らかな移行を可能にする。
最後に訪問者はAI生成の映像によって「ぬるぬる」とした非記号的世界に包まれ、シンボル体系を完全に手放す。「さようなら」というAIによる三波春夫の歌声が響き、「文明が変わっても人生は続いていくよ」と告げる。これは1970年万博の「こんにちは」に対する決別であり、新たな存在形式(ヌル)への回帰を祝う歌である。『ヌルの森』は人間がシンボルの束縛から解放され、東洋哲学の無の思想、ポストヒューマニズム、荘子的物化論を融合し、生命が本来的に持つ流動的で自由な存在への再統合を哲学的かつ詩的に問いかける。人間は記号に頼らずとも、計算機自然という新しい環境で永遠の「いま」を生きることが可能になるのである。